自分のものとは別の足音がするのに気がついたのは、少し前のことだった。

しかし、人のものにしては音も間隔も小さいのは確かだ。
…おまけに、荒い息遣いが聞こえるのは、どうかと思うのだけれども。


は振り返りたくなかった。
もう、後を追ってくる者の正体が分かりきってしまっているのもあるが。

途中で追跡者が諦めないかと言う希望を微かに持ちながら、はひたすら帰路を急いだ。






「おぉ!、ようやく戻ったか!」


正門の前に立つ見張り番の又助に声をかけられ、は彼の元に小走りで歩み寄った。
相手の言い方からすれば、自分の到着は待ちに待ったもののようにも聞こえる。


「すみませ、ん…っ、途中、少しありまして…」
「それより、早く上様にそれをお持ちしろっ、今はまだ三作の持ってきた物で繋いでるが…」
「…?三作さんが、何か持ってきたんですか?」


息が少し乱れ、これから頼み主の所まで一気に行くのは無理だと判断し、
体力が回復するのを待ちつつ、仕事仲間である彼から情報を聞く。

話に出てきた"三作"と言うのは、役職が違うがある程度の交流がある男の名である。
等三人の中で、最も主に近づくことが可能な三作の名が出てきて、は聞く。



「なんでもな、口をきく玉虫を捕らえたらしくてな。
 …確かに物珍しいのだが、上様の気が紛れているといいが」

「そうなん、ですか」



口をきく玉虫…一体どこにそのような生き物がいたのだろうか。
珍しいものを見たいと言う感情は、やはりも持ち合わせており、その姿を推測していると。


「所で、さっきから気になっておったのだが…その白犬は何なのだ?」


と、又助が言う。そして、振り返れば。


「わぅ?」


自分の微かな希望は授受されず、そこにはやはり先刻であった白い野良犬の姿が。
暢気な表情を浮かべる白犬は、自分に寄り添っているように見える程近くに座っていた。
…いつの間に。


「いえ、なんか、勝手について来てしまっただけです」
「…まぁ、いい。さぁ、早く上様の所に!」


白犬のことよりも、即座に機嫌が悪いであろう主のことを思い出し、
に対して、早く荷物を届けるようにと己で塞いでいた敷地への道をあける。

しかし。


「え、あっ」
「お、おぃ、こら!」


そこを通るべきであるよりも先に、この時を待っていたかのように、
先刻まで穏やかだった白犬が疾風の如く屋敷へ駆けてゆく。

あまりの変貌振りに、声は出たものの足が動かず。


「なにをしている!追うぞ!」


すでに正気に戻った又助は、に声を掛けつつも、すぐさま走り出した。








城内は、混乱の渦に陥っていた。

たかが一匹の白犬が迷い込んで来てしまっただけで、
すぐにでもつまみ出すことができる…そう、思っていたのだ。


「…又助さん」
「なんだ、」
「あ、あのわんこ、ただの野良犬のはずなんですけ、ど…?」
「わしには、あれが"ただの"と言うのは、おかしいと思うが」


城内を駆け回る白犬を追いかけて、幾分か時が経つが、
進入を目撃していたと又助は未だに白犬の尾を見続けるばかりだった。

そう、今もこうして捕らえる事ができないこの犬は"普通"ではない。
己の進行を妨げるであろう物が眼前に迫れば…二つに分かれてしまい、
かと言って、人自ら道を塞げば。


「ひやぁぁぁぁ!」


吹き所が知れぬ風が突如吹き荒れ、身動きが取れる頃には犬の姿は見えず。


「い、犬神って、言うものなのでっ、しょうか?」
「さぁ…っ、ただ、このことが上様に知れればっ」


白犬の後をひたすら追いかけている二人の脳裏に、
整った顔立ちをした"主"が、凛とした声で言い放つ。


「何…、野良犬も防ぐことができないとは…
 使えぬ者など、捨て駒として首を刎ねるべきであろうな…」


激しい行動で火照る身体が、一瞬の内に氷水に落とされた様に冷たくなる。
二人は顔を見合わせ、同時に頷き、より一層足を速める。

だが。


「!っ、この先…上様の…!」
「なんじゃと!?」


はその事に気づいてしまった。
…この事実を、一番知られたくない人物の所へと向かう白犬に。








「…騒がしい」
「オ、オイラは何も言ってないやィ!」


長き沈黙を破り、彼――元就はぽつりとそう呟いた。
自分の咎めになるのではないかと、"イッスン"と名乗った玉虫は慌てて言うが、
音としてではなく、空気の波長が揺らいでいると、彼は感じていた。

ゆったりとした動きで腰を浮かせ、近くに立て掛けてあった得物を手にし、
静かに空気が乱れる方向に構える。


「!…アマ公か!?」


籠の中の"イッスン"が小さな声で呟いた。
しかし、小さな彼が言った小さな独り言に反応し、声だけで問う。


「貴様の知り合いか。全く、なぜこのように――」


揃いも揃って騒がしいのか。と言葉を続ける前に、元就の耳に声が届く。
それも、聞きなれた者の声だった。


「ぃゃぁぁあああ!お願いそこだけは開けないでーっ!!」


その刹那。前方の襖が水平に切り分けられ、そこから何かが飛び込んできた。
あまりにもそれに勢いがあって、元就が切りかかる前に。



「あ」

ドーン、ガラガラガッシャーン、バリン。



凄まじい音、とそして舞い上がる紙。紙。紙。
この部屋の主が主であって、書物などが多量に置かれている所為もあるのだが。

その中、凄まじい出来事により籠が壊れ、ようやく自由の身となったイッスンは、
部屋に突撃してきたものに対して、素早く跳ね飛びながら近づく。


「アマ公ーーっ!!…このあほんだらの毛むくじゃらがァ!!」
「わぅ!?」


褒められる、と思っていた白犬改め、アマ公は相棒から繰り出された攻撃を諸に喰らい、悲鳴を上げた。
相棒の、己の予想と反する行動に、しゅんと、激しく振っていた尾が途端に項垂れた。

その間に、イッスンはアマ公の毛の中を探り、自分の得物を取り戻し、相手の目の前を跳ねる。



「何してたんだっ!突然いなくなるなっちまうなんて!
 …アマ公の所為でオイラは冷てェ兄チャンにお飾りにされそうになったんだィ!」

「…(鼻を鳴らしながらも、首をかしげている)」

「とにかく、アマ公はどっか抜けてるからこうなっちまうんだィ!」



などと一方的な説教が始まる中、紙に埋もれていた部屋の主が、気を取り戻した。

なんと無礼な者達なのだろうか。このような仕打ちをうけるとは…。
特に、先刻飛び込んできた者に対して、彼は激しい感情を覚えていた。
己の怒りを見つめながらも、凄まじい形相でその"無礼な者達"を見た刹那――元就は、動けなくなった。


純白に朱が鮮やかな、日輪の化身をそこにみたのである。








「…又助さん。これって、どう言う事なんでしょう」
「わしには、計り知れんことだ」


先刻、最後の望みを悲鳴のように叫んで止めようとしたが、結局それは叶わず、
己の主の部屋に飛び込んでいった白犬の説明をすべく、一足遅くその場に到着してみれば。

そこには、眼を輝かせ、うっとりとした表情で、侵入者を見つめる、己が主の姿があった。


「あぁ…美しい……その出で立ち、なんと神々しいことか…」
「オィ、兄チャン…アマ公の真の姿が見えるってのかィ!?」


気づけば、白犬と主の近くを飛び跳ねている小さな小さな存在が、驚きの声を上げていた。



「このお天道様の化身、アマテラス大御神が見えるってのかィ?!」



その語るには恐れ多いであろう名の存在だと言われた白犬は、
やはり相棒に指摘されたように、どこか抜けた表情で。


「…わぅ?」


と小さく唸っていた。






な、なげぇ!!
そして、次回へ続く。