彼は呼ぶ。何かに魅せられる様な声で――私を示すものとは別の名で。





既に浮かべていた氷も解け、徐々にぬるくなる緑茶を口にしながら、私は彼――光秀を見つめていた。
銀の髪を前へと流し、壁に寄り掛かり身動き一つせず、そこに居た。

彼は眠っているようだった。霊であるものがそもそも生理的欲求を感じるのかはさて置き、
私から見る限り、彼は目を閉じ、静かな呼吸音を立てて、タオルケットを羽織っていた。
もう一度コクリ、と茶を口に含み、そしてふと現実が舞い戻ってくる。


いや、私の中では未だにこの状況は現実味を帯びていない。
現実と言うのは情報だけでは成り立たない物で、
テレビから流れる映像と音声のみでそれを事実と受け入れられない理由はそれだ。

情報とは、まず形そのものを鵜呑みにし、
その後己の価値観、脳内処理能力によって徐々に浸透させるものだ。
それによって漸くそれは知識として成り立ち、
最後には経験と結合させることにより、ようやく現実味を帯びる。

…もし、上の定義の基で"現実味のある事実"が形成されるのなら、
私は情報から何の変化も起きていないのだろう。
変化していない理由は既に分かっている。答えは簡単だ。私がそこで止めているからだ。



分かっている。その先には、彼が言う人物と、私――「清水」との関係が成り立ってしまうから。


「信長公」


彼の甘い声は、私ではなく別の名を呼ぶ。ただ、その別の名は私に向けて放たれている。
そう思うだけで、息が詰まるような、とにかく嫌な感情が渦巻く。


全ては仮定の話の上で成り立っていることを、私は理解している。
しかし、仮定であろうと人という生き物はその先にあるものを素直に見てしまう。
この場合は、彼から別の名に平行線が伸び、その直後、更に長い距離を経て私に突き刺さる。
その線の名は縁(えにし)と言う、両者が例え望まぬとも流れるように伸びる、崩れぬ物。

私は光秀を彼が名乗った本人であると言う外部情報を、己の知識への進入を拒んでいる。
だから、私の中では彼の名も、彼が言う私の前世である者の名も、必要最低限以外では、出てこない。
条件が揃ってしまえば、情報はより強力な物へと変化して行き、
最終的に私を薙ぎ倒して現実味へと覚醒するだろう。

そうなれば、私に勝ち目はない。
いや、彼が目の前に現れ、そして、橋を通行しようとした事が、
既に敗北の道へと続いていたのかもしれない。


「…勝ち目はなし、かな」


小声で呟き、汗をかいたグラスをテーブルの上に置き、立ち上がり、
彼が眠る近くに配置してあるベッドに移動し、静かに腰掛ける。
そしてその位置から微かに見える彼の髪の色を見つめた後、ぐたりと、柔らかな寝床に倒れる。

逃げる者に、神はとても冷たいのを知っている。
ただ、その技量が無い私を、今は己の両腕の中で守るしかできない。
今は微かに震える腕の温もりを身に残しつつ、且つ先刻見た彼の髪色の脳に留め、静かに目を閉じた。







「…今、なんと仰ったのですか?」


彼は先刻まで浮かべていた癖のある笑みを瞬時に消し去り、真顔に等しい呆け顔になる。
さすがに此れには難色を示すとは思っていたが…やっぱりかと思いつつ彼の視線の先を見る。

確かに私も最初は父に言ったものだ。
「手を離せば倒れるものがどうして漕ぐと走るのか」
子供の持つ概念から見れば、これ程恐ろしい物はないだろう。
ただ、それでは効率が余りにも悪いため、私は彼にこう言ったのだ。


「光秀さん。此れに乗って出かけますよ」


ペシペシと、硬い音を立てて彼が乗るべき場所を叩く。
私は既に運転手としてその移動手段――自転車に跨っており、既に準備は万全だった。
あとは、彼次第だ。


「…倒れないのですか?」
「倒れません」
「落とされないのですか?」
「光秀さんが暴れなければ」
「そもそも動くので「往生際が悪いよ光秀さん」


この質問とそれに対する応答を繰り返した所で、彼の時間稼ぎにしかならないと分かり、
私は静かにその会話を打ち切り、彼に含みのある笑みを向ける。
此方としても休日であるにも関わらず朝からこうして準備をし、
調査を開始しようとしているのだ。
…幾分かは、従ってもらわないと。


「お邪魔しますよ、っと」


彼はふわりと荷台部分に腰掛けるが、平衡感覚がうまく取れないらしく、
前から見ている私からもそれは明らかで。


「光秀さん…両手を肩に置いてください」


すると微かに両肩の布部分が動き、黙視で布の色を若干移す手があることを確認する。
彼が私に触れたとしても、何も感じないのは分かった。

エネルギー基質、酸素、二酸化炭素を体の隅々まで行き渡らせる血液による熱が
そもそも存在しているのかも分からないのだ。
彼は霞のようであり幻ではない…人として形を成すからといって、全て同じと言う訳ではないらしい。


「走ってる最中には話しかけないでくださいね。行きますよー」
「…っ」


徐行発進をすれば、彼が背後で息を飲むのが聞こえ、
これでも速いだろうかと思い、更にスピードを落とす。
確かに私の背後に彼は存在しているのに、重さも、肩に置かれた手の熱も感じないのが、
通常の速度で走ってしまう要因になり、とにかく最初は徐行運転を志す。


「速度あげますよー…って大丈夫ですか?」
「…ええ、なんとか」


少し歯切れの悪い彼の声が聞こえ、やはりこの異文化はまだ早かったのかもしれないと思うけれども、
今から止めるのも面倒で、且つ何時もどこかか余裕のある彼の
慌てる様をみる絶好のチャンスであると心に浮かび、意地悪の意味でも私は止まるつもりはない。


彼と言う不確かな存在に気を配りながらも、私は静かに己の身を思考の海に沈める。
ただ自転車を漕いでいるだけなのに、その荷台には他者には見えず己にしか認識されない亡者が一人。
そう現状を理解すれば、なんともおかしい。

日光に照らされ、時折道路のコンクリート内に潜む骨材(こつざい)が輝きを放つのを見ながら、思う。
私は此処に生き、私と言う個人からは大勢へと関係線が伸び、
私はその関係線を辿って他者と交流していただけで。
別世界や来歴(らいれき)に思いを馳せることはあっても、それらと繋がりがあるとは考えもせず。



「――、…」



顔を吹き抜ける風に、私は小さな歌声を乗せる。
己の存在を確かなものにするために、その様なテーマの曲が自然と口先から洩れた。
外部環境に囲まれ生きる者として、己の存在など霞みやすいもので。

だから、忘れぬために、まどろむ世から目覚めるために、
歌はあるのかもしれないと言う仮説を立てた。


「クク…お上手ですねぇ…何と言ってるかは分かりませんが」
「え、聞こえてるんですか!?」


余裕が再来したのか、彼はあの独特の笑いを交えながら声を掛けてくる。
最初に話しかけるなと自分が言ったことなど忘れて、私は彼の発言に驚きの声を上げた。
聞こえる筈がないと、高を括っていた自分自身に思わず嫌気が差した。
自分の声が美であるか醜であるか、そう言う問題ではなく他者に聞かれた事が余りにも気恥ずかしく。


「さぁもっと愉しませて下さい…!」
「…もう歌いません」


これ以上彼が言おうものなら運転者の特権を駆使して拒絶しようと思ったが、結局彼は何も言わず、
互いにこの時速十五キロの風景を見ながら思考の海を漂い、目的地までの時を過ごした。





偉人から伸びる関係線

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歌ったのはバン/プの「グロリア/ス〜」です。
主、思い悩む話。
骨材…コンクリートやモルタルを作る補充材料。砂・砂利・砕石等。
来歴…物事のそれまで経てきた次第。由緒。由来。