血溜りを見て、何故か吐き気がした。 慣れているはず。もう、何の感情を抱くことなどないはず、なのに。 心中を覆う弱々しい冷静さを剥がせば、そこには焦燥と…幼き日から 忘れてしまった感情が燻(くすぶ)っている。 「・・・っく」 腹が痛む。敵が得物に毒を塗ることは当たり前だが、今回は特に酷い。 慣らしてある毒とは全く別物のようで、毒の症状が治まる様子もない。 毒が傷口から血へと回り、全身が鉛のように重く、息は詰まり、朧げな 意識の中、懸命に自我を保つ。 血の海が乱れるたびに、四肢に、顔に、朱の証を塗りつけてくる。 もう、足を止めてしまいたかった。このまま、地に崩れた屍を友とした らどんなにいいだろうかと。 しかし、どこか冷静な感情が叫んでいた。 今の己は、致死に至るまで傷ついてはいないと。 この場で意識朽ちたとしても、すでに相手方に存在を知られてしまって いる己は、無理にでも生かされ、情報を吐かされるのであろうと。 嗚呼、嫌だ。 だから、足を止めることは選択肢は存在しない。 背後を今も尚追って来ている気配に、捕まるわけにはいかない。 だけれども。 「…ぅ、あっ」 深手を負う己を、容易く仕留めることが出来る相手ならば、無意味だ。 左肩を起点とし、体に染み込む激痛に、身動きが取れなくなり。 血溜りに、身が沈む。 半身を朱に染め、微かに痙攣して動けぬ己の目に、何かが映る。 色として、わからない何かが、そこにいる。 「――っ、…」 何か口にしている。だけれども、分からない。 ただ、細く、しなやかな何かが空を切る音が聞こえ、視界の端で、瞬い たのが分かった。 予想とは裏腹に、己を屍へ変えるつもりの相手に内心安堵しながら。 迫りくる何かを、身動きひとつせず、見つめていた。 だけれども、最後にみたものは。 銀でも、見慣れた朱でもなく。 ……微かなぬくもりを持った、深紫だった気がしてならない。 首を擡(もた)げて、長い時が経っていたのだろうか。 意識が鮮明になり、己の現状を理解する際には、真っ先にその事実が 身から伝わってきた。 ただ伝わってくる事柄がそんなことだけではないのを、分かっていた。 分かっていたから、心は妙に静かだった。 上半身を柱に添わせる様にして、縄で結ばれていた。 足は何もされてはいなかったが、よく目を凝らせば、爪の隙間に朱が 残っていた。 そして…自害を恐れてか、感じるのは口内に詰め込まれた布の存在。 ――…嗚呼、やはりこうなってしまったか。 予測が確信へと変わり、その刹那、心中に言いようのない情が湧く。肺 の臓が膨張し、背には氷が流れ、戻す物などない胃から嘔吐感が迫る。 この情の名を、知らない。 ただ、それを感じ続けるのが、余りにも嫌で、身を悶えた。 「…おや、お目覚めですか」 「……っ、…ぅ…」 物音を聞きつけたのか、今にも朽ち果てそうな戸を動かして、 何者かが入ってきた。 夕暮れなのだろうか。橙の日光で相手の姿が見えず、影に見える。 ただ、同業者にしては随分油断を見せる相手に、不信感を覚えた。 声からして、男だが、聞いたことのある気がして、しかたがない。 男は戸をガタガタと閉め、そして穏やかな足取りで、近づいてくる。 嫌だ。嫌だ、と。本心が言う。 生れ落ちた場所が闇だったのだから、こんな事覚悟の上で生きていた。 なのに今心中を支配するのは、冷静さではない己が、分からずにいた。 だが、別所から差し込んできた夕日で照らされた男を見て、 葛藤が全て抜け落ちてしまった。 灰色の髪を腰まで伸ばし、前髪から覗く色白の顔には薄ら笑いを浮かべ ている。そして、身に纏う衣は…深紫の色を、していた。 知らないはずなどない。この、男は――。 先刻、己が付いていた勢の敵の総大将……近江の、明智光秀だ。 口を塞がれていなかったのなら、己は悲鳴を上げていただろう。 しかし、それ以上に意味が理解できずに、寧ろ混乱していた。 何故、総大将であるこの男が、私を捕らえ、そして家臣も連れずにここ にいることが、分からない。 ただ、脳裏にすぐさま過(よ)ぎったのは、男の二つ名。 白の、死神。 己の快楽を求め、敵味方に関わらず殺めると言う。 人の恐怖と、苦しみ抗う姿に美を感じる…その意を込めて。 「ん、ぅ…ッ!」 近づく男に対し、ひたすら身を悶え、縄が解けるのを祈るしかなかった。 恐ろしさで、思考が染まる。 鮮明に、己が、この男に何をさせるか想像してしまい、恐怖の値が増す。 けれども、自分があの戦場で負った傷の存在までは考えておらず。 「…うっ…」 激痛で、思わず身を折り曲げ、そして目からは涙腺が緩み、うっすら潤む のか分かった。 だが、痛みの中突然明智が自分の頬に触れてきた事に驚き、顔を上げた。 「大丈夫ですか?」 邪気などない、端正な顔に不安そうな表情を浮かべた明智が、そこには いた。 白の死神、と言う名を持っているとはとても思えない、そんな顔だった。 だとしても、心を許すことなど出来るはずもなく、それ以上背後に下が れないことを知りつつも、足で無理に己を後退させた。 「…貴女が、私の軍に忍んでいた間者であることは知っています」 「っ、!」 「ただ、今は貴女を殺す気も、拷問を処すつもりも、 そして懐柔(かいじゅう)する気もないことを理解してください」 体と発言の自由を奪われた上でそんな事を言われても、信じられるはず がない。 その気を察したのか、明智は尚も頬に手を触れたまま、言葉を続ける。 「貴女を拘束しているのは、逃げて欲しくなかったからです。 口の詰め物もそうです…そうでもしなければ、貴女は既に自害して いるでしょう?」 確かに、そう言われれば、明智が言った意味も、少しながら理解できる。 …よく見れば、痛みが治まってきた腹の傷も、丁寧に処置されている。 そして縄も決して己では解けないが、間者を捕らえているにしては随分 緩い気がしないでもない。 明智の真意などは分からないが…ただ、静かに首を縦に動かした。 しかし、やはり明智も用心しているのか、もうしばらくしてから口の 詰め物は外す、と言い、己の丁度真横に腰を下ろし、時折、髪に触れ たり、労りを込めた手で優しく体を撫でる。 …完全に信じたわけではないが、どうしても危険だと思えず、静かに それを受け入れている。 「…貴女は、自分に二つ名があることをご存知ですか?」 くうを見ながら、明智が独り言のように話しかけてきたのに対し、驚き ながらも、首を振った。 二つ名など、その本人に届くことは稀だとはよく聞いていたが、まさか 己にあるとは思わず、困惑してしまったのだ。 「"霞の曼珠沙華"…戦場を駆ける貴女は、血の朱をまとう美女で、 手にしようとすれば霞のように消える…そう言う意味だと」 明智はゆったりと顔を此方に向け、見入るようにして己を見つめてくる。 それに心中がざわめくのを覚え、身を微かに引く。 「戦場で貴女を見かけ、その美しさを直に見て――私は思ったのです。 …霞んでしまう前に、貴女を私のもとへ、と」 「――っ!」 気付けば、明智の手は己の背後へと回っており、そして――強く、引き 寄せられた。 そして今の己の状況を理解すると、自由が利かないと言うもどかしさを 感じながらも、身を捩り、悶える。 しかし、己の肌に感じるぬくもりと、彼の服の色を見て、記憶が蘇った。 記憶が途切れてしまう前の、あのぬくもりと、あの色と。 自分の軍に忍んでいた間者を、一国の主がわざわざ己の身の危険を侵して まで、肩入れするのだろうか。 …するはずが、ない。 ただ、それは己の価値観であって、完全にそれを否定する気には どうしてもなれず、己が闇に生きる者であることに、静かに目を閉じ、 肌から伝わる暖かさに身を任せた。 |